序章 好きなこととは何か?
- 国や社会が豊かになればそこに生きる人に余裕が生まれる。その余裕には2つの意味がある。
- 金銭的な余裕…稼いだ金銭を全て生存のために使い切ることはなくなる
- 時間的な余裕…生きていくための労働に全ての時間を割く必要がなくなる。何もしなくて良い時間、暇を得る。
- この余裕を自分の好きなことに使っている
- 現代人は何がしたいのか自分で意識することができなくなってしまっている。
- 生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれですよ」と語りかけてそれをかわせるようにしている。
- 私たちの好きなことは生産者が生産者の都合の良い様に、広告やその他手段によって作り出されているかもしれない。
- 労働者の暇が搾取されている。なぜ搾取されるのか?それは人が退屈することを嫌うから。だから与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。ではどうすれば良いのか?どう生きるべきなのか?それがこの本の問い。
- 文化産業にあらかじめ受け取られ方を決められた楽しみを受け取り人々は楽しむ。だが、人間はそれほど馬鹿ではない。何か違う、これは本物ではないという気持ちを持つ。
- 人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。
1章 気晴らし
- 人は部屋でじっとしてられない
- 人は気晴らしがしたいだけ。ウサギがりに行ってうさぎが欲しいのではなく、ウサギ狩りという行為そのもので気晴らしがしたい。
- 気晴らしはなんでもいい。ただ熱中する必要がある。本当に幸福になれると思い込んでいる事実。
- 気晴らしには負の要素がないといけない。=苦しみ。
- 退屈する人間は、気晴らし=苦しみを求める。
- 自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しい。
- 退屈とは、事件が起こることを望む気持ちが挫かれたもの(ラッセル)
- 退屈している人間が求めているのは楽しいことではなく、興奮できること
- 熱意を持って取り組める活動が得られれば幸福になれる。興味をできる限り幅広くせよ。あなたの興味をひく人やものに対する反応を敵意あるものではなく、友好的なものにせよ。(ラッセル)
- 不幸への憧れを作り出す幸福論は間違っている。
2章 退屈はいつ始まった?
- 人間と退屈は切り離せない。生きることは退屈との戦いである。
- 人間は元来遊動生活を送る生き物だったが、定住化し始めた。定住により人間は退屈を回避する必要に迫られる様になった。
- 定住化でなれ自分の能力が十分に発揮できない。まさに退屈する。
3章 経済面における、暇、退屈の向き合い方
- 暇とは→何もすることがない、する必要がない時間。客観的。
- 退屈とは→何かをしたいのにできない。 主観的。
- 暇であることはかつて高い価値が認められていた
- 暇であるとは余裕があること。経済的条件を手に入れている。
- 労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、労働者に無理を強いることは不都合である。労働者に適度に余暇を与えて、最高の状態で働かせることが最も都合が良い。
- 給料よりも他人から尊敬されることが仕事における満足の重要な源泉になっている。
4章 消費社会と退屈の関係
- 消費社会は退屈と強く結びついている
- 必要な限界を超えて支出が行われる時に、人は贅沢を感じる。ならば、人が豊かに生きるためには贅沢がなければならない。
- 浪費とは必要を超えてものを受け取ること、吸収すること。使いきれないものが浪費の前提。贅沢の条件。贅沢は豊かな生活に欠かせない。浪費はどこかで限界に達する。
- 消費には限界がない。「あの店に行ったよ」というための記号や観念のこと。到達点がないにも関わらず、どこかに到達することが求められる。
- 消費社会はわずかなものを記号に仕立て上げて、消費者が消費し続けるように仕向ける。
- 周りの目を気にする消費社会になってしまったが故に休みの日も俺は好きなことをしているんだぞと全力で周囲にアピールしなければいけない時間になっている。
- 消費社会で疎外された人間は「人間はそもそもこうではなかったからだ」とか「人間本来の生き方ではない」などと考え始める。それは大変危険である。なぜなら強制的だからである。本来性の概念は人から自由を奪う。また本来的に生きていない人を非人間的として扱われることになる。
- 所有がなければ人を隷属させられない。俺の命令に従うならこの所有物を分けてやろうというロジックが働かない限り、人を自分に従わせることはできない
5章 退屈とは?
- 私たちは自分の人生のミッションはこれだと探している。なぜそんなことをしなければならないのか?もしかしたら自分たちにとって退屈になってしまっているのではないか?
- 退屈とは?
- ①何かに退屈させられること
- 田舎でこない電車を待つ時間
- のろい時間によって引き留められていること
- 気晴らしでやるべき仕事がないと人は虚しい状態に放っておかれることになる。人は何もすることがないことに耐えられない。だから何か仕事を求める。
- ものが言うことを聞いてくれない。そのために、私たちは空虚放置され、そこにぐずつく時間による引き留めが発生する。
- 私たちは何かによって退屈させられているとき、その何かが持つ時間にうまく適合していないと言っている。
- 大きな自己喪失
- 仕事の奴隷になっている
- 時間を失いたくないという強迫観念に駆られている
- ②何かに際して退屈すること
- 何がその人を退屈させているのかが明確でない
- 飲み会中はなんとなく楽しいが、終わり家に帰った時に退屈だと感じる
- 際している状況そのものが暇つぶし
- 投げやりな態度、周囲に自分を任せっぱなしにするのが心地よい。こうして、そこにいる私自身の中に空虚が生育してくる。
- 生きることはこれに挑み続けること
- 安定と正気がある
- 何がその人を退屈させているのかが明確でない
- ③なんとなく退屈だ
- 最も深い
- 突発的に現れる
- 気晴らしが無力、退屈から逃れられない
- 全て一律同然にどうでも良くなっている。
- 何一つ言うことを聞いてくれない場所、空間にポツンと一人取り残されている。あらゆる可能性が否定される。
- 自分に目を向けることを強要される。そこで、自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。
- その可能性とは自由である。人間が自由であると言う可能性が示され、それをどう実現するかは「決断すること」だ(ハイデガー)
- ①何かに退屈させられること
- 第一から第三にかけてより深くなる
- 本当に恐ろしいのは、なんとなく退屈だと言う声を聞き続けること。仕事の奴隷になるのはなんとなく退屈だという深い退屈から逃げるため
- 第三形式の退屈を逃れるために第一形式の退屈に逃れる様になる
6章 ハイデガーの結論について
- 人間だけが退屈する
- 人間だけがあるものをあるものとして経験できると言っている。(太陽を太陽として)
- 人間は世界そのものを作り上げることができる
- 全ての生物は別々の時間と空間を生きている
- あらゆる生物はそれぞれがそれぞれの環世界を生きている。例えばダニは3つのシグナルからなる環世界を生きている。人間についても同じことが言える。散歩者、りょうし、植物学者。
- 人間だけが退屈する。なぜなら人間は自由であるから。動物は退屈しない。なぜなら動物は囚われの状態にあって自由ではないから。環世界に生きているから。(ハイデガー)
- 人間は他の動物と比較にならないほど容易に環世界の間を移動する。このことは人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。一つの環世界に浸っていることができない。何か特定の対象に取り攫われ続けることができるなら人は退屈しない。しかし、容易に人間は他の対象に取り攫われてしまう。だから退屈する。
7章 結論
- 決断を目指すものは故意に交流の機会をたつ。
- あらゆる配慮と注意を自らに免除し、ただひたすらに決断した方向に向かえばいい。もはや「なんとなく退屈だ」と言う声も聞こえない。従うことは心地よい。それは心地の良い奴隷状態に他ならない。
- 「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば第一形式の退屈が現れる。退屈と混じり合うような気晴らしを選択すれば第二形式の退屈が現れる。
- 第二形式こそ退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである。
- 自分が何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。その時に人は、第三→第一へ逃げ込む。周囲の状況に対して故意に無関心になり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやると言うより、奴隷になることで安寧をえる。
- 好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。
- 人間にとって生き延び、成長していくこととは、自分なりの安定した環世界を途方もない努力によって創造していく過程といった方が良い。
- 私たちは絶え間なく習慣を更新しながら束の間の平穏を得る。
- 人間はものを考えないで済む生活を目指して生きている。
- 人間は精神生活はあらゆる面において快を求める快原理に支配されている。快を求めて不快を避ける。
- 生物にとっての快とは興奮量の現象であり、不快とは興奮量の増大なのである。一定の状態にとどまることを快と受け止める。
- 人間であるとは概ね第二形式の退屈を生きること。そして時たま、第三形式=第一形式に逃げてまた戻ってくることである。したがって人間であることは辛い。
- 人間らしい生が崩れる時は環世界になんらかが不法侵入してその人間をつかみ、離さないとき取り攫われ、その対象について思考することしかできなくなる。これは第二形式でいる時のみに起こる。考える契機となる何かを受け取る余裕があるから。
結論
①こうしなければならないと思う必要はない。
- 本書をすでに読んだのであればその知識が頭に残る。あなたの実践の中にいる。
②贅沢を取り戻すこと
- 浪費し、豊かになれ。限界が来るからそれが満足である。
- ものを受け取るようになるしかない。そのものを楽しむことである。衣食住等
- 贅沢を取り戻すとは、第二形式の中の気晴らしを存分に享受することであり、人間であることを楽しむこと。
③動物になれ
- 人は自らが生きる環世界に何かが不法侵入し、それが崩壊するとき、その対応を迫られ思考し始める。
- 不法侵入ではない何かに取り攫われるようになるしかない。
- 楽しむことは思考することにつながる
世界には思考を強いるものや出来事が溢れている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる。
動物になることをよく知る人なら、何かおかしいと感じされられるものを受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そしてそのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。
気づき、学び
- 金銭的余裕はなくね?まだあと55年分6000万ぐらいは稼がなあかん。
- 時間的余裕はあるかも、今の会社やと生きるためのお金以外だけやと40ぐらいで稼ぎ切れる。
- 消費に使わず浪費に時間と金を使おう。承認欲はよくない。承認欲がない俺はあんまり関係ない。
- ミッションステートメントを土台にしてた俺にはブッ刺さり
- 退屈やからそうやらないといけないって第三退屈からの第一退屈になってたかも。盲目で他者を受け入れてなかったのかも
- 3つの退屈とかエグすぎ。共感しかない。めっちゃわかる。
- けど第二でいるべきらしい。仕事の奴隷になるなってさ。そうじゃないと退屈のまま死んじゃうよって言うてる。
- 現状めっちゃ奴隷になってる
- 第二形式で不法侵入を待って思考しろと
- 贅沢に浪費する。そこでいろんな新しい経験をする。しまくる。それを楽しむ。勉強する。それによって不法侵入されて思考する。思考し続けておかしいなと思うことに気づく、それを変える。
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